一條 達也 氏
湯主一條 代表取締役社長
89年日本ホテルスクール卒業。
600年続く温泉
夕食をとるために、「湯主一條」の別館から本館へと館内を移動していると、本館へ通じる渡り廊下の途中で案内係の仲居さんがこんなことを言ってくれる。
「こちらの"時の橋"を渡り、大正時代へとご案内いたします」
なんとも気の利いた添え言葉ではないか。お客のわくわく感は高まる。
そして、廊下を渡った先の本館は、なるほど大正ロマンの世界に入り込んでしまったかのような深い味わいのある木造建築の個室料亭だった。とってつけたような大正ロマンではない。床も柱も黒光りしていて、木枠の窓にはめられた窓ガラスは工業製品では作れない微妙なゆがみを持っている。本館に足を踏み入れて、この旅館の歴史を一気に感じ取ることができた。
湯主一條がある宮城県の鎌先温泉は600年の歴史を持つ老舗である。600年前、一人の農夫が鎌の先で岩角をかき分けたところ、もくもくと白煙を噴きながら温泉がわいたと言い伝えられている。「鎌先」とはその故事に由来する地名だ。
湯主一條の始まりは1560年ごろになる。今川義元が桶狭間の戦で織田信長に敗れた際、義元の配下にあった一條長吉がここで湯治をしたところ、日ならずして傷が癒えたので、長吉は弓矢を捨てて宿を開いたのだそうだ。今回のトップランナーは、その長吉から数えて20代目の主、一條達也さんである。
東京に出て修業する
老舗旅館の長男で、父親は地元の名士だったから、一條さんは子供心にもいつかは旅館を継ぐことを意識していた。でも、宮城から外に出ないですんなり継いでしまったのでは視野が狭くなると思って、東京の学校を選んだそうだ。
「学校のすぐそばの東中野に住んでいたものだから、部屋は同級生のたまり場になってましたね(笑)。それまでは大家族と大勢のお客さまに囲まれて育ったものだから、帰ると家にだれもいないという状況に驚いたのを覚えています」
ホテルスクールを卒業してからの10年間は、東京で仕事をした。
「最初の就職先はインターンでもお世話になったホテルワトソンでした。実家の客室数が71室なので、それを意識していた気がします。ワトソンは86室の小さなホテルでしたから」
思うところあってホテル以外の仕事もしてみたものの、気持ちはずっとホテルに向いていたという。その自分の気持ちを再確認したのは、その業界外の会社での研修中だった。
「自分の目標を書かせる研修があったんですね。そこで確信しました」
講師が「自分の目標を紙に書いてください」と言ったとき、一條さんは迷わず"ホテルマンになりたい"と書いてしまったそうだ。
「そんな折にホテルワトソン時代の同僚が『新しくできたホテルに転職したから、一條も来ないか』と誘ってくれたんです。私がいつも『ホテルに戻りたいんだ』と言っていたのを思い出してくれたようです。将来のやりたいことを人に伝えておくのは大事なことですね」
それで、誘われて転職した先がホテルインターコンチネンタル東京ベイだった。
何かで、目立ってやろうと思った
インターコンチネンタルに入社して、フロントに配属されたころの一條さんは、「とにかく何かで目立ってやろう」と考えていたそうだ。
「今でも忘れませんよ。入社早々のことです。田中勝総支配人が僕の名前を覚えていなかったんです。それがけっこう悔しくて、絶対この人に名前を覚えさせようと思って(笑)」
何の分野で目立とうかと考えたとき、ちょうどいいキャンペーンがあった。シックスコンチネンタルクラブ(現在のインターコンチネンタルアンバサダー)会員獲得キャンペーンである。サービスの現場で自分の実力を数値化して人に証明するのはなかなか難しいが、会員の獲得数であれば一目瞭然である。それに目を付けた一條さんは、会員獲得数トップをとるために必死で頑張った。
「会員になることは、何度も利用されるお客さまにはメリットのあることなんです。ただ、フロントスタッフは面倒なのでなかなか売り込みをかけない。僕はすきあらばセールスしていました。一晩に5、6件の新会員をとったこともありました」
一條さんは、4期に分かれているキャンペーン期間中の3期目と4期目で連続トップをとってみせたそうだ。
「今の目黒光紀総支配人が、当時の私の上司でした。私がシックスコンチネンタルクラブの申し込み書類を持ち出すたびに『また、とれたの?』と驚いていましたよ(笑)」
そうやって頭角を現していくうち、フロントのメンバーから一條さんはあだ名を付けられる。その名も「お父さん」。
「なんで、そう呼ばれるようになったんでしょうねえ。若い女性スタッフが『お父さん、これはどうやるの?』なんて、聞いてくるんです。お客さまに会話を聞かれて、奇異の目で見られたことも・・・」
よっぽど頼りがいがあったにちがいない。事実、一條さんは入社後2年足らずでコンシェルジュデスクのインチャージを任されたのだから。
どん底からの旅館再生だった
今回の取材の初めに、04年に日本テレビ系の番組『ズームイン!!SUPER』で湯主一條が特集されたときのビデオを見させていただいた。芸能人が温泉につかって聞いたようなせりふを言うだけの温泉特集かと思いきや、特集のタイトルは「老舗旅館を救え~新米女将の挑戦~」であった。今では思いもよらないが、この湯主一條もかつては瀕死の状態にまで陥ったことがあったのだ。
父親の急逝に伴って主に座った一條さんは、女将とともに苦労の道を歩いてきた。
「従業員はもとより、多くの友人、知人のお世話になって、ここまで再生してくることができました。特に元JR仙台支社長の清水愼一さんには本当に頭が上がりません」
ある会合の席で清水支社長と出会った一條さんは「とにかく一度、鎌先を見にきてください」と懇願したという。正直に言うと、二つ返事で「じゃあ、今度行きますよ」という清水支社長の言葉を最初は信用できなかった。
しかし、その会合から1カ月の後、清水支社長は7人もの部下を連れて鎌先にやって来て、「商品をつくりましょう。そのための部下を連れてきたよ」と言ってくれた。忘れもしない、清水支社長と出会ったのが04年の10月3日で、一行が鎌先見学に来たのが11月24日。そして翌年の1月18日にはJR東日本から「みやぎ薬湯 鎌先温泉」という商品が完成していた。驚きの早業である。
「『こんなところが、まだ残ってたんだねえ』と、鎌先のことを気に入っていただきました。その商品が完成して、一番最初のお客さまは清水さんご本人だったんです」
湯主一條に行くと『"あなたにふさわしい宿"に出逢える「七つの扉」』という小冊子が手に入る。この宿の女将であり一條さんの妻である千賀子さんが作ったものだ。その冒頭にこんな文章が。
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まずは、自己紹介をさせていただきます。私が鎌先温泉「時音の宿 湯主一條」女将の一條千賀子でございます。
◎出身・・青森県。津軽のじょっぱり女(?)です。
◎血液型・・おおらかで明るく人に愛されるO型です。
(中略)
◎趣味・・今は"よりよい宿作り"だけが趣味(熱血!)です。
◎得意な事・・ピアノ。
◎苦手な物・・虫。
(以下略)
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親近感のわいてくる自己紹介の後には、女将である千賀子さんが館主である一條さんを紹介している文章が続く。こちらも「なるほど」とうなずいたり、くすっと笑ってしまう紹介文なのだが、ぜひそれは鎌先を訪れて手に入れてほしい。
前述のテレビ番組の中では、女将が涙ぐましい努力をしているシーンが多数映っていた。外からやって来た女性が突然に女将に座り、一軒の旅館を仕切るというのは並大抵のことではないと想像できる。この女将とこの主、どちらが欠けても今の湯主一條はなかっただろう。
さて、女将の最大の仕事は日々の旅館の切り盛りであるが、主の最大の仕事はなんであろう。
「私の場合は"従業員をわくわくさせること"だと思っています。社長が東京に出張に出たと聞きつけた従業員が、『また何か新しいことが始まるのかな?』とか『どんな新しいお客さん連れてくるんだろう?』とわくわくするような主でいたいですね」
20代目は、そう言ってほほ笑んだ。
(2006年取材)
89年日本ホテルスクール卒業。89年ホテルワトソン入社。92年(有)ベル・ボナール入社。96年ホテルインターコンチネンタル東京ベイ。フロントオフィサーとして勤務の後、97年4月コンシェルジュを兼務、98年フロントセカンド(ルームコントロールなど)。99年レ・クレドールジャパン国内会員(現在の日本コンシェルジュ協会個人会員)入会。99年一條旅館常務取締役。04年6月代表取締役社長に就任、20代目を引き継ぐ。
2016/2/26
日本全国約30,000施設の中から、昨年一年間で顕著な実績、高い評価を得られた宿泊施設を決定する「楽天トラベルアワード」。卒業生の一條さんが代表取締役社長を務める時音の宿 湯主一條が、2015年度の「お客さまの声大賞」プレミアム部門で東北1位を受賞しました。この「お客さまの声大賞」は、お客さまの声の「総合」部門において、最も高い評価を得られた宿泊施設に送られる賞です。(中央が一條さん)