大山 久尚(78年日本ホテルスクール卒業) 高崎ビューホテル/専務取締役総支配人
すごい学校に入っちゃった
運輸省管轄の(財)日本ホテル教育センターが設立され、プリンスホテルスクールが同財団運営の「日本ホテルスクール」に名称変更したのが1976年である。大山さんは、まさにその76年に入学した学生だった。
「笹川良一さんが4代目の学長に就任した年で、入学式には観光業界の大物が勢ぞろいしていて、マスコミもたくさん集まっていました。すごい学校に入っちゃったんだなあ、と入学してから驚きました(笑)」
これからの日本は、海外からたくさんの観光客が訪れる国になる。それを見据えて、観光産業のプロを育成しなければならないんだと、壇上で学長が熱く語っていたのを今でもよく覚えている。
「名前がオオヤマでしょう。50音順で着席したから、最前列に座っていたんですよ。かなり強烈な入学式でした」
当時のホテルスクールは東京・三田の笹川記念会館内にあり、館内で模擬ホテルを運営していた。今でも5階にあるレストラン「菊」では、実習もかねて学生たちが運営を担っていたという。
「儲けを出すための施設ではないですから、価格が安いんですよね。ランチタイムなどは近くの会社に勤める方たちで長蛇の列ができていました。プリンスホテルの現役ホテルマンと一緒にレストランを動かして、とにかく実践的、本格的な勉強をしましたよ」
曜日による客足を予測して仕入れの量をコントロールする。クレームが出れば、その対処法を学生たちで話し合って考える。そこでは単なるサービススキル以上のことを実習を通して教えてくれた。
「本気で『将来の観光産業を担う人材を育成しなければ!』という思いがあったのでしょうね。学校側がいくらか援助してくれて海外研修に行く制度などもあって、私はいい学校に入ったなあと実感しました」
セールス畑ひと筋で
学校を卒業後、大阪ホテルプラザに入社した大山さんは、25歳からずっとセールス畑を歩んできた。
「これは後で聞いた話なんですけど、面接のときに『セールスがやってみたいです』なんて言った学生は、僕だけだったらしいんですよ。就職試験の成績のほうは、まったく足りていなかったらしいのですが、当時の役員の方が『あいつは面白いかもしれん』と興味を持ってくれて、テストケースということで採ってくれたみたい(笑)」
そう謙遜する大山さんだが、今でも総支配人として毎日トップセールスをしている。高崎ビューホテルの宴席看板を見れば、地元の医師会やロータリークラブなどの名前がずらりと並ぶ。いかに地元住民から愛されているホテルなのかが一目瞭然だ。
「高崎という土地のことを考えても、このホテル自体の立地を考えても、ここは宿泊で稼げるホテルではありません。地元の方に何度も何度も利用していただかなければならないんです」
大阪ホテルプラザからビューホテルに移ったときも、セールスの力を見込まれて引き抜かれた。ビューホテル側は大山さんに役職を与えようとしたが、「一から勝負したいから」と言って名刺にタイトルはつけなかった。それでも、大阪仕込みの営業技術は花開き、同僚のなかには「おれに仕事のやり方を教えてくれ」という人まで現れた。いつの間にか、若手営業マンを連れて歩き、ノウハウを教えながら取引先を回るようになった。
「教えたことは簡単で、とにかく具体的に話をしろということだけ。『何かあったら、よろしくお願いします』じゃ駄目で、例えば『○○担当の○○さん、御社の○周年の企画は○月にうちでやりましょう!』と具体的に話すと、相手は具体的に返事をしてくれる。買ってくれないときも具体的な理由付きで断られるから、次回の対策を練ることができる。ただ、それだけ」あとは相手と話をしているときに"気配"を感じられるかどうかが、唯一のカギだと大山さんは教えてくれた。
「気配の読めるホテルマンを集められたら、いいホテルができると思うんですよね。例えば、パーティに来ている女性がいて、本当は食べたいものが目の前にあるのに、他人の目の都合があって食べられない状況なんかもあるでしょう。そういうときに気配を読んで、『これは、当ホテルのシェフがどこそこから取り寄せた逸品ですから』なんて理屈をつけて勧めると、『あら、そうまで言うなら仕方ないわね』と言って、内心では喜びながら食べてくれる。そういうのが気配を読むということだと思います」
接客も営業も同じで、気配を読んで相手の懐にすっと入れるかどうかが勝負なのだそうだ。その技で、大山さんは多くの常連客を獲得してきた。
取引先と従業員に愛されて
大山さんが高崎ビューホテルの総支配人に就任したのが00年初頭で、日本ビューホテルが民事再生の申請をしたのが01年の9月だった。
「高崎ビューホテル倒産!って、地元の新聞にも大きく出ましたよ。それからは大変だった。朝から晩まで取引先を回りましてね、債権者集会に来ていただくよう説明するんです」
そして債権者集会当日。250人の債権者が集まる会場で、ホテルの幹部は前に立ち、事態の経緯と今後について説明をした。
「そういう場面って、テレビではよく見るけれど、まさか自分が当事者になるとは夢にも思ってないでしょう。前に立って、必死で説明しましたよ」集会も終盤になったころ、大山さんが話している最中に、一人の男性が手を挙げて起立してから言った。
「おれはビューホテルを応援する。だから頑張れ!」
すると、ほかの何人かも口をそろえてくれた。
「頑張れ」
「頑張れ」
感動的な光景だった。大山さんは目頭が熱くなるのを感じていた。
「集会には弁護士の方もいらしてましてね、後で声をかけられたんです。いわく『こういう素晴らしい雰囲気の債権者集会は見たことがありません』ということだそうで、弁護士さんからも『頑張ってください』と励まされました」
まったく想像もしなかった状況に立たされた高崎ビューホテルだったが、これを機に従業員、そして取引先とも結束を大きく強めたと大山さんは振り返る。
「従業員に対する説明も大変ですよね。こちらは余計な理屈をこねても駄目だと思ったもんで、『とにかく私を信じて着いて来てほしい』のひとことでした。そうしたら、新入社員の女の子がね、『私は民事再生がどういうことかもよく分からないけど、総支配人にはついていきます』って言ってくれたんですよ。泣けますよね」
目先の餅は食っちゃ駄目
大山さんは就任以来、高崎ビューホテルの至る所を改装していった。前述のとおり、途中からは民事再生中であるわけだから銀行からの借り入れは困難である。無い金をひねりだしての設備投資であった。
最上階のレストランを壊して宴会場にし、婚礼の際には近所の鳥川から花火を打ち上げるサービスをしたら地元の名物になった。チャペルを新設し、仕掛けいっぱいの宴会場をつくったら、多くの若者たちがその宴会場目当てで集まってくれるようになった。
「目先の餅を食っちゃいかん。そんな気持ちでした。しばらくは我慢して、必要なところに投資しないと未来は開けないと信じていましたから。従業員にとってはきつい時代だったと思います。でも、本当に目先の餅は食っちゃ駄目だったんです」
05年の8月には神殿「悠衣殿」を新設した。インタビュー後に筆者ものぞかせていただいたが、和紙を通して届く光の中に能舞台を思わせる金属性のステージがあるという、柔らかさとシャープさの二面性を持つ斬新な空間であった。ホテルの事情を知ってなのか、この斬新なデザインの神殿を地元の施工業者は驚くほど良心的な価格で請け負ってくれたのだという。
「地元というのはねえ、ありがたいことです」大山さんは悠衣殿の光の中で目を細めながら、つぶやいていた。
悠衣殿をオープンすると同時期に、担当弁護士を通じて高崎ビューホテルに民事再生終了の通達が下りた。目先の餅に惑わされず、従業員と共にぐっとこらえてきた4年間だった。
「近い将来、婚礼は200件。売上高は16億円に乗せたい。そこまでいけば、なんとかホテルも安定するし、従業員も安心させられる。従業員には耐えてもらってますから、早く報いたい」
今日も高崎ビューホテルの宴会場は地元の人たちによる宴席で埋まっている。大山さんは館内を歩くたびに、懇意にしてくれている常連客と遭遇してあいさつを繰り返していた。地元に愛されるホテルと地元に愛されるホテルマン。このホテルの最大の武器である。
(2006年取材)
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