石部 和明氏(97年日本ホテルスクール卒業。) 京王プラザホテル 東京・メインバー「ブーリアン」 スーパバイザー
バーテンダーに魅せられて
本稿の取材で、京王プラザホテルの石部さんを訪ねたのが06年の9月27日だった。まったくの偶然だったのだが、その前週に発行した本誌『週刊ホテルレストラン』の表紙を飾った人物こそが、石部さんの人生に大きく影響を及ぼした人だそうで、取材の冒頭ではずいぶんとその人の話しで盛り上がった。
その、石部さんの人生に多大な影響を及ぼした人とは、日本ホテルバーメンズ協会の現会長である渡辺一也氏である。 渡辺会長と石部さんの最初の出会いは、まだ石部さんが日本ホテルスクールに在学中のころだった。 「カクテル講座という授業が年に1回の特別授業としてありまして、そのときに特別講師でやってきたのが渡辺さんだったのです」
すでに当時、渡辺会長は名だたる大会で数々の賞を受賞している有名バーテンダーだった。 「その動きに魅了されました。授業ですから話しながらカクテルを作っているのですが、とてもスマートでかっこよかったんですよ。渡辺さんの授業を受けて、バーテンダーになるなら京王プラザに入るしかないと、就職先まで決めてしまいました」
バーテンは調理と接客の両方できる
高身長で鼻が高く、スッキリとした二枚目の石部さん。これぞバーテンダーという雰囲気バッチリなのだが、もともとは調理師にでもなろうかと考えていたという。 「高校生のころはガソリンスタンドでアルバイトをしていて、当時はオイル交換とかタイヤ交換とか、何か技術を身につけることが楽しかった。その延長線上で調理師というイメージが頭に浮かんだのだと思います」
アルバイト先の先輩にそんな将来像を話すと、意外な答えが返ってきた。 「そうか? 俺はオイル交換しているときよりも、お客さんと接している時間のほうが楽しいな」
確かにそうだった。オイル交換もタイヤ交換も、最終的にはお客さんに喜んでもらう瞬間が楽しかった。 「そうしたら、その先輩がバーテンダーの友達を紹介してくれたんです。そのバーテンダーの方が言いました。『バーテンは作ったものを目の前のお客さんにサービスできる。調理と接客の両方ができるんだ』と。なるほどな、と思いました」
それでバーテンダーを目指すようになって、前述のいきさつで京王プラザホテルに入社した。
「カクテル・オブ・ザ・イヤー」受賞
京王プラザホテルに入社した石部さん、あこがれの渡辺氏との出会いは意外なほど早い時期に訪れた。 「たまたま渡辺さんと私はロッカーが近かったんですね。ロッカールームで見かけたときに、勇気を出して話しかけました」 学校に来てくれたときに授業を受けて感動したということ。だから京王プラザに入社したということ。早くバーテンダーになりたいということを石部さんは話した。 「そうか。入社して1年経ったら配属希望調査があるだろう? そのときにバーを希望しなさい」
渡辺氏のその言葉を励みに、1年間がんばった。1年後には、この人のいる「ブリアン」に行くのだと心に決めていた。 「それで、配属希望調査ではメインバーの『ブリアン』と書いたのですが、最初に配属されたのは、45階にあるスカイバー『ポールスター』でした」
そのことを話すと、まるで石部さんの将来を見通したように渡辺氏は言った。 「ポールスターはとにかく(カクテルの)数が出る。だから練習になるよ。私も最初のコンクールで優勝したときはポールスターのスタッフだった。あそこで修行して、賞でも取ったらブリアンに降りてきなさい」
その言葉どおり、石部さんはバーテンダーになって5年目、26歳のときに「サントリー ザ・カクテル・コンペティション」で応募総数2025作品の頂点である「カクテル・オブ・ザ・イヤー」を受賞する。
「たしかに渡辺さんの言ったとおりで、ポールスターは数も出るし、お客さまから『おまかせでお願いします』とか『私のイメージにあわせて作って』などのご要望も多く、即興でカクテルを作る機会が多かったので、とても勉強になりました」
カクテルのことだけを考えた2年間
03年に石部さんが「カクテル・オブ・ザ・イヤー」を受賞したのは「MOONY AU LAIT(ムーニー・オ・レ)」というクッキー&クリームのリキュールとミルクを使った、ほんのり甘いカクテルである。しかし、ここに到達するには相当な苦労があったようだ。 「最初に『サントリー カクテル・オブ・ザ・イヤー』に出場したのは23歳のときでした。いきなり全国大会にまで進んで、スポットを浴びながらカクテルを作って、めちゃくちゃ気持ちよかったんですよ(笑)」
そのときは佳作に終わったものの、周りの人は「よくやった」と石部さんの快挙を褒め称えた。 「でも、本人はものすごくショックだったんですよね。恥ずかしながら根拠のない自信満々でして、優勝する気でいたものですから」
その後2年間、石部さんはひたすらコンクールのことだけを考えて生活した。通勤中の電車の中吊りを見ていても、カクテルのアイデアは潜んでいないかと探す日々。思いついたことはすべてノートにメモして、空いた時間はとにかく新しいカクテルを作りまくった。 この苦悩の2年間を経て、カクテルに対する考え方が変わったことが「ムーニー・オ・レ」の受賞の秘訣だと石部さんは話してくれた。
「それまでは自分の中から湧き出たものをカクテルにするというか、芸術家的発想だったと思います。でも、『ムーニー・オ・レ』は決してそういう発想で完成したカクテルではありません。むしろ、世の中がどういうものを欲しているのかということを考えて作った作品です」 当時はスターバックスコーヒーに代表される、いわゆるシアトル系カフェが急激に街に増え始めたころだった。さまざまなフレーバーコーヒーが誕生し、人々に受け入れられる現象を石部さんは見ていた。
「じゃあ、夜のフレーバーコーヒーを作ろうと思って考え始めたんです。当初は『ミッドナイト・オ・レ』という名前にしようと考えていたんですが、飾りにクッキーを乗せたところ、月がイメージできたので『ムーニー』にしました」 "Moony"を辞書で引くと、「月夜の」という意味のほかに「夢見がちな」という意味があった。
「夢見がちなオ・レ」。まさに夜のフレーバーコーヒーとしてぴったりなネーミングだった。
最初はお酒の話から。徐々に信頼関係を
現在はメインバー「ブリアン」をまとめる立場にある石部さん。「バーテンダーはいかに多くのお客さまと"信頼関係"を築けるかどうかが勝負」と語る。 「たとえば御注文のとき『君に任せるよ』という言葉がいただけたとき。これは信頼関係が築けた証拠です。少しずつ会話をしていって、バーテンダーがお客さまのことを覚え理解し、お客さまがバーテンダーのことを覚えたときに信頼関係が築ける。だから記憶力はかなり重要ですね」
お客さまによってはプライベートの話を一切しない人もいる。逆に仕事の話がタブーの人もいる。相手によって、どんな話題を広げていけばよいのか、細心の注意を払いながら石部さんは会話を進めていく。 「一番最初はお酒の話をするんです。そこから探りつつ、広げていく」 石部さんの頭の中には400人ほどのお客さまのリストがあるという。最近は、それを後輩に伝えていくのが仕事だそうだ。
「渡辺さんを初め、先輩から受け継いだものに私のデータを付け足して、それを後輩に伝えています。私がいなかったからといって、ブリアンのサービスが下がってしまってはいけないのです。バーは、おいしいカクテルを出しさえすればいいというものではありません。大切なのは"液体よりも人の心"ですから」
バーテンダーの格とはその技術によって決まるのではない。ハートによって決まるのだ。石部さんを見ていると、つくづくそう思う。
(2007年取材)
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